気休めなもの。役立ちのもの。

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サルとイヌの共同ブログ

物乞いの方にお金を渡すべきか、否か。

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途上国を旅したり、海外駐在していたりすると必ずと言っていいほど物乞いの方に遭遇します。

 

私は政府関係者を日常の仕事相手に途上国開発の仕事をしていますが、未だに物乞いの方に金銭を渡すか、について非常に悩みます。実際にどのように行動するのが正しいのでしょうか。

 

 

人に聞いたりネットで検索してみたところ、同様の悩み・疑問を抱える人は多いようです。一方、この問題はモラルや倫理感に大きく関係しているため、「感情論」が多いように感じます。確かに答えはないですが、もう少し感情的な議論を避けて考えてみたいと思います。

 

物乞いの方のためになるのは何か。

「物乞いの方に金銭を渡すか」という議論を分解してみると「倫理的に渡すべきか」という「自分の感情(罪悪感や慈悲)」と「物乞いの人のためになるか」という「問題解決のためのアプローチとしての効果」という2つの観点があるように思います。

 

今回は、「物乞いの方にお金を渡す」という行為が「問題解決のためのアプローチとしての効果」があるのか、に着目して考察を進めます。

 

そもそも法律で禁止されている可能性がある。

まず、「問題解決のためのアプローチとしての効果」について考察する前に、「物乞い」という行為そのものが法律で禁じられている場合がある点に触れます。

 

例えば日本では物乞い行為は法律に抵触します。

 

軽犯罪法(昭和二十三年五月一日法律第三十九号)

 生計の途がないのに、働く能力がありながら職業に就く意思を有せず、且つ、一定の住居を持たない 者で諸方をうろついたもの

二十二  こじきをし、又はこじきをさせた者

 

ざっと調べただけでも、インドネシアやタイも禁止しています。タイは厳しいですね。3年の禁固、もしくは30000バーツ(約90000円)、またはその両方となっています。

 

物乞いの方が本当に困っているか否かは、我々には判断できない。

では、仮に法律で禁止されていないとします。その場合、お金を渡す行為は「問題解決のためのアプローチとしての効果」があるのか。

 

確かにお金を渡すことで、食事を買えるようになり物乞いの方を救っているともいえますが、以下の理由からそれが適切なアプローチか否かはわかりません。

 

  • 援助するべき対象かわからない。仮に物乞いの方が老人であったり、障害があったとしても、その人が本当に物乞いをするレベルで貧困状態にあるのかは、物乞いをされた瞬間には、我々に判断がつかない。
  • 仮に援助するべき対象だと断定できても、お金を渡すことが最適な解決策かどうかに疑問が残る。

 

極端なケースですが、物乞いで生計が成り立つために、マフィアやギャングが組織化して、子供たちを障害者にし物乞いをさせ、資金源にするケースも実際にあります。

 

こういったことが起こり続ける場合、目の前の人を救うことが、更にその他の人を苦しめる構図の一助になると考えられ、それが適切な「問題解決のためのアプローチ」とは言えません。

 

ある研究では、物乞いをする人たちはベーシックニーズを満たすためでなく、家を買うために物乞いをしている、というケースがを紹介しています。町中に物乞いの方は多いのに宗教施設での食事の配給には実際に来る人が少ない、食事や物を渡そうとしても拒否しお金を要求する、といったケースもあるようです。そのような人々は「物乞い」という行為を悪用している可能性があります。

 

本来は行政サービスがセーフティネットになるはず?

「問題解決のためのアプローチとしての効果」として見た場合、あなたが渡すお金は「本当に困っている人」に渡され、使われるべきですが、我々には「本当に困っているか」が判断できません。

 

それでは、本来はどういった形がよいのか、について考えてみたいと思います。国が豊かになり生活水準が向上すれば、というのも大きな要素ですが、依然として格差の問題は残ります。ジニ係数ご参照。

国内における個人または世帯所得が、完全に平等な状態からどの程度乖離しているかを示すジニ係数をご覧いただけます。0の場合は完全に平等、100%の場合には完全に不平等を示します。(世界銀行

 

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(アメリカとトルコは同程度の格差レベル)

 

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(日本はカンボジアとイエメンの間)

 

先進国にも少なから物乞いの方がいるように、国が豊かになってもこの問題は残ります。なぜなら国が豊かになっても格差が残り、さらに経済成長と比例して上がる生活水準についていけない方が一定数いることが考えられるからです。

 

その一つの解決法としては、行政サービスがセーフティネットとしての役割を果たす、というものでしょう。税金を集め、それを資金源にサービスを提供する。ある種の富の再分配機能です。議論はありますが、日本の生活保護もその一つですね。

 

一方で途上国においては、そういった行政サービスが欠如しがち、もしくは整備されていません。存在したとしても、行政機関が非効率・生産性が低いことに加え、汚職という問題もあいまってセーフティネットとしての機能が働いていない状況にあります。汚職については、Transparency InternationalのCorruption Perceptions Indexが有名です。

 

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(赤が濃い地域が汚職が多い)

 

さらに汚職率の高い国では、「行政」のみならず「組織」に対する信用度が低く、NGO等の「組織」を通じた寄付等ではなく、直接物乞いにお金を渡す行為に繋がっているという報告もあります。 

 

「問題解決のためのアプローチ」として直接お金を渡すよりも効果的なことは?

本来行政サービスを担うべき役割を代替する組織を支援する方法があります。例えば、母体の大きい国際NGOを選んで、寄付を行う。

 

「母体が大きい」というと曖昧ですがこれは結構重要で、企業等の補助で運営費が潤沢にあるほうが、寄付したお金がより目に見える形で使われやすい。実際の寄付が実際に受益者に直接届きやすい。

 

極端な例をだすと、国際NGOがプロジェクトをやるにしても、寄付したお金の大半がプロジェクトのアドミコストに使用されるケースもありえます。例えばプロジェクトの効果的な結果を出すために専門家が必要とされた場合、専門家の人件費はもちろんのこと、その派遣のための事務費(アドミスタッフの人件費等)に使われてしまう。

 

もちろん、そのプロジェクトが長期的に見れば問題解決にアプローチする可能性も高いのでそれを否定するものではありません。(今回は「物乞いにお金を渡す」との比較なので、できる限り自分のお金が直接届く、という観点で議論しています。)

 

でもミクロの視点では…。

上記の通り、いろいろな諸条件を考えた上でベストな道を探そうとすると、視点がマクロ、そして中長期な視点になりがちです。ただ、「物乞い」というミクロで短期的な結果が求められる状況に立たされた場合、どうでしょうか。

 

ミクロな観点では、出会った物乞いの方が障害を持っており働けず、自分がお金を渡さなかったせいで今日の食事をとれないかもしれない。今日死んでしまうかもしれない。その可能性は捨てきれません。

 

限りなく少ないとしても、その渡す金額がその人の1日を救う可能性はあります。しかしながら、それが大きな意味で「問題解決のためのアプローチとしての効果」があるか、むしろ解決を遅延・妨げないか。そう思うと、悩ましいです。

 

結論(どうするか。私の場合。)

当然ながら「絶対にこれが良い」という結論はありませんが、上記の考察から、私は「物乞いの方にお金は渡さない」というスタンスです。

 

その代わり、それより多いお金を自分自身が調べて信頼できるNGO(なるべく大規模で現地のネットワークが強いところ)に寄付することにしています。

 

絶対にこうしなくてはいけない、という正解がある話ではなく、非常に難しい。判断は皆さんのその瞬間に委ねられます。一方、できる限り多くの人が犠牲にならない、つまり物乞いビジネスを生み出さないようにする、そう考えるとやはりお金を渡すのは適切ではない、そう思えます。

 

この記事が皆さんの考えるきっかけになれば幸いです。